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セルフフォト

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    季節、折々の記念撮影、、。

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2018年4月22日 (日曜日)

母の事、、(再入院と退院と、、)

母は4月5日から入院している。 今回の病院は、国分寺駅から西武多摩湖線で最初の駅・一橋で下車、徒歩3分、一橋病院という。 診療所の紹介、、 褥瘡(ジョクソウ)の治療が目的だ。 床擦れのことだ。 寝たきりになった時、注意するようにと、医師をはじめ看護士さん、介護スタッフ、ケアマネからも、顔をあわせるたびに言われて来た。 油断すると、できやすく、治癒に手のかかる症状らしい。だから、圧迫されて、少しでも赤くなった皮膚を見つけると、ぬり薬を塗ってケアしていた。 それが出来てしまった。それも在宅でケアできる程度を越えて入院治療が必要、、と訪問医療の医師と皮膚科の専門医の協議の診断結果なのだ。 もっと早く気づいていれば、簡単に治せたのですよ、、と看護師さん言われ、心に刺さる。 でも、、まさか、、ここにできるなんて、思わなかったし、、。 すると、、身体中、何処にでもできるので、気をつけましょう、、と追い打ちだ。 確かに、十円玉ほどの大きさに土手ができて、中が膿んでいる。 膿を削り取るように洗い流し薬を塗る。これを、治るまで毎日繰り返す。皮膚が改善して再生して傷を塞げば治癒したことになるが、患者の体力・栄養状態によって、2ヶ月から3ヶ月かかるそうだ。 高齢の母は、それ以上にかかるかもしれないという。褥瘡とはそれ程侮れないのだ。
で、どこに出来たか、というと、、後頭部、、頭の後、、だ。 なぜ出来た、悔やんでも、出来てしまった以上、、注意不足だった、ということ、、 ここにもできるんだと、そう注意しているしかない。 足の指から頭まで、身体中、何処にでも、できると経験した事になる。 以後、不注意は許されない。。
入院後、4日目、担当医師に呼ばれ面談、、少しでも早く治癒し退院できるように、手術をするので同意してほしいとのことだった。 幹部の傷んだ皮膚を切除き、S字に切開して縫い合わせるのだそうだ。 抜糸まで1週間から10日、その後経過をみて、順調にいけば4月中に退院できるだろう、、とのことだ。 もちろん同意し、手術は10日に行われた。 経過は順調だと聞いている。
そして20日、ソーシャルワーカーから連絡をもらった。 退院に向けての準備、在宅での傷口ケアなど、今から相談していきたいということだった。 週明けの月曜日に、面談の時間を決めた。 医師からは、まだ、退院許可が出た訳ではないが、準備を進めることになった。

2018年4月21日 (土曜日)

母と僕の写真

脳梗塞で倒れ、以後、寝たきりになった母、、、
そんな母と二人で撮った写真が残っていた。 
初めての子、、父は、頑張って、写真館でとってもらったようだ。
A1 左は、裏に生後1ヶ月目の日付がメモしてある。右は3〜4ヶ月目だろうか。
母と二人で写っている写真は、この二枚以外、何も残っていない。

2018年4月20日 (金曜日)

独り言・月日の経過とともに、淋しさが、募る? #4

長女が突然行ってしまって、二ヶ月になろうとしている。 
ある人が、言った、、
「元気ないね。日が経つに従って、淋しさが、募ってるんじゃないの、、」と。 
いや、違う。 募ってない。 そうじゃなくて、、 あの日、あの時から、、
何も、変わらないんだ。 
心が、一瞬で凍ったまま、、 心に、でかい穴が開いたまま、、 
真っ暗に沈んで、、 何もかも、そのままなんだ。。  
以前のように、明るく軽やかな心に戻りたいと思う。 
でも、戻らない。 重くよどんだままなんだ。。  
募ってゆく。。変化しているなら、その方がいい。。 
どの方向へ、どう変わるのか、確かめられそうだから。 
でも、違うんだ。
あの瞬間から、泣けない、、涙が流れない、、心の底が、凍りついたままなんだ。。

2018年4月17日 (火曜日)

独り言・月日の経過とともに、淋しさが、募る? #3

3月5日(月)告別式、
予定時刻の2時間前に会場に着いた。 遺品テーブルが昨日よりも賑やかになっている。次女と三女、息子達が相談して、新たに並べたという。その中のいくつかは、棺に入れるのだそうだ。カラフルな寄せ書きが三つ。二つは友人達、一つは親族からの送る言葉だった。「パパ。後はパパだけ、、ここに一言書いて。」三女が寄せ書きの一つを持ってきた。 大きなハート型の二つ折り、カラフルに彩られている。きっと三女がデザインして作ったのだろう。叔父・叔母、姪・甥、母親、姉妹、夫君・息子達、の名前がある、、右の上、ハートの丸みの辺りにスペースが空けてあった。 天国へ持って行ってもらう送る言葉?! 何を書く?! しばらく考えて、ずっと気になっていた事を書いた。 長女が小学五年?の時の事。登校拒否を起こした。原因がわからず、悩み苦労した時だ。 <あの原因はパパだね。今、やっと、お前の気持ちが理解できる。苦労かけたな、、>と。 こんなことになる前、ゆっくり話したかったことだ。。
この日も、時間前から、たくさんの人が別れを惜しんでくれた。 友人知人の多くは、まるで僕の知らない人達だ。 疎遠になっている親戚にも会えた。 誰もが「早過ぎる、、」と嘆いてくれる。 僕より先に行くなんて、順番が違う。。そう答えた。
時が来て、長女は花に包まれた。 スナップ写真、愛用の小物、等、足元に溢れ、あの三つの寄せ書きが胸元に添えられた。 夫君・息子達・義理の兄弟達・僕も加わり、支えて出棺。 義理の父、義理の母、の時よりも重かった。 火葬場へと向かう。 遺影と名が飾られた小さな祭壇のあるボイラーに棺を収め、合掌、、点火された。 一人離れ、敷居の中に入らない女性がいた。長女の叔母にあたる人だが年が近く、、子供の頃から長女を妹のように可愛がってくれた。長女もお姉ちゃんと呼んで、慕っていた。 控え室への途中で、なぜ入らないの?とたずねた。 「私、クリスチャンだから。入れないの。」と答えた。 えっ!クリスチャン? いつから、、? はじめて知った。そんな戒律があるんだ。。 控え室で30分程談笑して後、、促されてボイラーの前に、遺骨を白壺に移す。 姪と一片の遺骨を箸で支え合いながら移した。真っ白だった。 火葬の後、精進落としは、長女が好んでいた蕎麦屋の二階座敷での会食となった。 母の介護を理由に、そこから家路についた。 いつしか細かい雨が降り出していた。
帰宅して、介護ベットに横になっている母に報告。 送って来たよ。びっくりする程大勢の見送りだった。 でもさぁ、、なんでだ。 92歳のあんたはここで寝てる。元気ではないけど、、生きてるよな。 あいつは、、あんたの孫は、やっとあんたの歳の半分だぞ。なのに、なんでだ。。 順番で言えば、あんたが先だろぉ。そして俺、、。二つも飛び越して行っちまった。。 まだ小二の子供もいるんだぞ。。 なんでだよぉ。。酷いな。。それでも、残ったものは、、、わかってるよ。。

2018年4月16日 (月曜日)

独り言・月日の経過とともに、淋しさが、募る? #2

3月4日(日)通夜、
定刻の2時間前、式場に着いた。 長女は棺に納められ、会場の中央より祭壇近くに安置されていた。 葬儀は無宗教で行われる。 祭壇の位置には大きな遺影が飾られ、多くの花が飾られている。その前に6m程のテーブルが一列、爽やかな色の布が敷かれ、長女の愛用品、スナップ写真、などが飾られた。 長女家族が都内から湘南の海沿いの街に越して13年? 家事の他に二つ大きな活動をしていた。一つはパン作り教室。次男が程度は軽かったようだが、食物アレルギーがあって、育児に苦労した事から始まったと聞いている。 オーガニックにこだわり、ある教室に通い、高じて<パン先生>となり、自宅で教室を開き、、地元のこだわり食品の店に手作りパンを並べるようになった。 もう一つは数年前から始めたテニスだ。遊びでラケットを振っていたのが、教室でレッスンを受け、初心者クラスの競技会で好成績をあげると、より上のクラスへと意欲を見せ、ダブルスで優勝するまでになったとか、、いつから、それほどアクティブになったのかと驚かされるほどだった。その様子は、FaceBookで知ることができた。 
思えば、小・中・高から大学まで、友人が多く、我が家には、いつも幾人もの友人が集まって賑やかだった。その中心でにこやかに笑顔を輝かせていたように思う。高校時代からの親友をはじめ、結婚し母になっても友人関係は延々と続いたらしく、都内のどこどこで、何時代の仲間とランチなんだ、と嬉々として出かけていた。 おいおい、子供らはぁ?と聞くと、、 大丈夫。近所の何々ちゃんが見てくれる。とサバサバしていた。 いつも、周りに、友人が集まって来る、そんな魅力があるのよ。。と聞いたことがあった。。 へ〜、そんなものかね。。 僕自身では経験のない驚きでもあった。  
この海辺の街は、長女には最適な環境のようだ。 <パン先生>の活動をベースに、人の心を捉える人柄もあって、交際範囲が広がっているようだった。 息子らは海でのびのびと育ち、ここで産まれた小学三年の次男君はウインドサーフィンに魅せられ、すっかり湘南ボーイだ。
定刻になる前から大勢の方が集まって、列ができた。 無宗教なので焼香台は無い。代わりに、「一言、お別れの言葉」を書いてもらおうと、<ルーズリーフ>が用意された。 案内用紙にこのような趣旨が書いてあった、、「残された子供達が、母親がどんな人柄であったか、後に知ることができるよう、お言葉をお願いします」と。 棺の周りには人垣が出来、、涙と笑い声が混ざり合う、長女の人柄そのものの雰囲気が会場に溢れていると、友人たちが教えてくれた。 結果、予想以上の参加者があって、<ルーズリーフ>の束は、この日だけで、二冊になった。しかも、どのページも、一言ではすまず、びっしりと言葉が並び、涙の跡が滲んでいた。 この街で、長女の暮らしと世界が大きく広がり、友人の輪が繋がったいたようだ。僕の知らない長女の人間関係の大きさに驚かされた。
会場の都合で、その夜は、棺の側で過ごすことができない。 この日も帰宅する。

独り言・ 月日の経過とともに、淋しさが、募る? #1

今年になって、大きな出来事、理解できない事、いくつかアクシデントが起きた。その一つを書いておくことにする。 ただ、どれにするか迷い、、いや、これを書き残しておきたいと、はなから思いながら、気持ちが定まらず、ズルズルと書くことを、躊躇していた。 書いて、どうなるのか、自分に何が起きるか、予想つかなくて、怖かった、、と言っていいと思う。
2月27日、長女の夫君から電話が掛かった。「もしもし、僕です。・・お義父さん、落ち着いて聴いてください、、」という言葉で始まった。 要約すると、、小二の次男が下校して、家で倒れている母親を見つけ、様子が変なので、お隣に助けを求め、119番で救急搬送された。 担当の医師から電話があり、自分は会社を早退して病院に向かっている、、という内容だった。 状況がはっきりしないので、次女、三女にも連絡して状況を問うた。三女とは携帯が繋がらず、次女と話せた。 自分も病院に向かっている。三女も同じはずだと言う。 パパは何時に来れるか?と逆に問われた。 僕には、寝たきりの母の介護があり、いくつか連絡、手配をしてからでないと、家を空けられないが、、お前たち二人がそばにいるなら安心だ、、と告げた。 家を出る時に連絡して、と次女が言った。 ケア・マネに状況を連絡し、介護スタッフの時刻を早めてもらい、21時前にやっと家を出ることができた。 救急搬送された病院の最寄り駅は大船、、家から、およそ2時間、、電車を東京駅で乗り換える、、思いの外、混んでいた。 あれこれ想像しては、取り消し、また想像して、、暗い窓ガラスに映る自分を眺めていた。 大船駅からタクシーに乗った、と次女に告げた。 夜間入口の前で待つ、と返事。 病院までは、地図で確認したときより遠く感じた。 夜間入口の前に着くと、次女・三女・長女の二人の息子が揃って待っていた。 急に不安が現実になった、、。 会ってやって、と次女。 他の三人は無言のまま、、何これ?どうした? 不安と嫌な空気が急に重くなった。 エレベーターの前で、上、ではなく、下へのボタンを次女が押した。嫌な予感が一層強くなった。 B2で降りた。静かな廊下が真っ直ぐ、、いくつかのドアがあり、一番奥へ。ドアの前に夫君が立ち、僕に会釈をした。開けてくれたドアを入った。あぁ~~、霊安室だ。広く感じる。奥に小さな祭壇があり、ささやかな花、線香が供えられている。心の何処かで、否定しながら、予感していた。予感しながら、俺の予想はいつも外れるから、と自分に言い聞かせていた。が、その手前、ストレッチャーに横になった長女の頬は冷たかった。顔を撫でた、呟くように声をかけた。返事は無い。わかっていても、かけ続けた。 今日、家で何があってさぁ、、お婆ちゃんは、こうでさぁ、、いつもなら話すことのない事ばかり、、話続けて、顔を、髪を、撫でた、、。 そこへ、担当してくれた医師が入って来て、状況の説明をしてくれた。 僕が着いたところで、改めて説明して欲しいと、夫君が乞うてくれたらしい。 大まかな内容はこうだ、、心臓に粘着性のある腫瘍ができていた。場所が悪く、脳への血管を塞いでしまった、という事だ。 そのため、貧血を起こしたように意識が遠のき倒れたのだろう、と。 発見が早ければ、蘇生も可能だったけれど、時間が経ち過ぎていて、、手を尽くしたが、、 ということだった。 苦しまなかったと思います。その言葉だけが救いだった。 すぐに霊柩車が来て、、長女は帰宅することになった。 自宅では、ベットに寝かせ、翌日、納棺することになった。 次女と三女は二日ほど残り、後片付けと葬儀の準備を手伝うと言う。 母の介護がある僕は、始発で一度帰ることにした。。 
次女から、連絡が来た。 次の日曜日にお通夜・翌月曜日告別式と決った。

2018年2月18日 (日曜日)

ぼくの写真日記#1083、、アン♡の10歳記念、、#1

今年は2018年、、ふと思って、はたと気づいた。18021701 母の介護に追われて、忘れていたわけではないのだが、、5月の誕生日で、アン♡は満10歳になる。我が家に来たのは、'08年の7月だった。 あれから10年になる。 そこで、この10年に撮り溜まっている画像をもとに、10年を振り返ってみようと思う。

左は今朝のアン♡。




まずは、、'08年7月、北海道のドドニー犬舎から空の旅で羽田へ。僕が出迎えて我が家へ。なぜかすぐにくつろいでいるアン♡。
087 8月、散歩デビューを果たすと、僕のウォーキングの共をして野川公園へ。
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                        公園ではたくさんの仲間がいて、友達ができた。大人は、新参者の子犬を仲間として、犬社会のしつけをしてくれた。 僕は大助かりでした。
0882                  しかも、走り回るアン♡にとって最適な遊び場です。
0883  しかし、やはり鳥猟犬のDNAは健在か、、野川沿いで出会った鴨に敏感に反応。
08111        年が変わって、'09年5月、1歳の誕生日を迎えたアン♡。
095a         すっかりレディに、、ただし、川遊びが大好き、、
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              逗子の海岸で海遊びにも大はしゃぎです。
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                                                            我が家に来ての一年、、この続きは、画像を整理しながら、お見せしましょう。

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